何でこんな場所に!?

ヒューマンズウェルから東に直線距離にしてわずか100m、白川の小道から、ちょっと横道に入った場所に明智光秀の首塚があります。

1582年の戦国時代の末期京都の本能寺において、ほぼ天下を手中に収めた織田信長を謀反により自害へ追い込んだのが家臣の明智光秀でした。

変後、もう一人の有力織田家家臣である羽柴秀吉と山崎の合戦において無念の敗北を喫し、自身の居城であった近江坂本城に戻る途中の山科小栗栖(おぐるす)の竹藪で落ち武者狩りの竹槍に脇腹を突かれ自害したそうです。

その際光秀の遺言により、自身の「首を知恩院に持参せよ」と命を受けた家臣がこの地に首を埋めたことから「首塚」として現在に至っています。

明智光秀の首塚(あけちみつひでのくびづか)

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日本史最大のミステリー 「本能寺の変」の本当の黒幕は?

本能寺の変は、織田信長の苛烈な性格が原因により光秀が積年の怨恨により衝動的に起こした謀反事件・・・と歴史の授業で学んできましたが、近年の歴史家の研究により、これまでの定説を覆す様々な説が浮上してきました。

中国大返しから山崎の合戦に至る過程が不思議なくらいスムーズに展開したということから、本能寺の変を事前に察知していたのではないかと疑われている「豊臣秀吉黒幕説」、天皇に取って代わることを公言して憚らない信長に対し、危機感を抱いていた有力公家を中心に光秀を利用したという「朝廷黒幕説」、信長に謀反を疑われ妻と長男を自害させられ恨みを密かに抱き続けたという「徳川家康黒幕説」・・・などなど、様々な黒幕陰謀説が浮かび上がってきています。こういった様々な説をあれこれ思案するのも歴史考察の面白いところですね。

日本史上最大のミステリーと言われているこの「本能寺の変」、果たして真相は如何に。